グイノ・ジェラール神父の説教



特別な祝日

聖人の祝い



聖家族の祝日
主の公現の祝日
主の洗礼の祝日



            聖家族 C年   20181230日  グイノ・ジェラール神父

            サムエル上1,20-2224-28  1ヨハネ3,1-221-24  ルカ2,41-52

 イエスとマリアの保護者であるヨセフは沈黙の人です。 彼の口から出た言葉は一つも知られていません。 ヨセフという人は敏感な感性を持ち、精力的であり、積極的に決断する人です。 ヨセフはユダの部族に属し、ダビデ王の子孫です。 「その子をイエスと名付けなさい。 この子は自分の民を罪から救うからである」(マタイ1,21)という天使の勧めに従い、イエスに名前を与えることによって、ヨセフはイエスをダビデの系図に入れました。 ヨセフはナザレに住み、大工として働き、後に自分の仕事をイエスに教えました。 ナザレの人々はイエスについて話すとき「この人は大工の息子ではないか」(マタイ13,55)、または「この人は、大工ではないか。 マリアの息子です」(参照:マルコ6,3)と言っています。 ヨセフは天使の忠告を受けて「夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトへ去り」(参照:マタイ2,14)イエスの命を守りました。 「天と地に対する『父性の源』と呼ばれる」(参照:エフェソ3,15)イエスの前で、ヨセフはいつも謙遜で目立たず忠実な父親でした。 「わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか」(参照:ルカ2,49)とイエスが自分は神の子であることをはっきり言ったので、父親ヨセフは神から委ねられた使命を全うして静かに退きました。

 イエスの母マリアも沈黙の方です。 私たちは彼女の数少ない言葉を知っています。 マリアは心でよく聞くので、自分の人生の中で「代々に限りなく、主を畏れる者に注がれる神の愛」(参照:ルカ1,50)を発見することができました。 私たちのためにイエスを産んだ後、マリアは「その子を布にくるんで飼い葉桶に寝かせました」(参照:ルカ2,7)。 イエスが生まれたベツレヘムの村の名は「パンの家」を意味します。 ユダヤの伝統に従って布にくるまれたイエスは、まるで生きたパンのようです。 そして、イエスは飼い葉桶に置かれると既に私たちを養うパンとして示されています。 母としてマリアは日常生活のすべての出来事を思い巡らします。 謙遜で貧しいマリアは、産んだ自分の子の運命を邪魔しないことを承諾しました。 ちょうど昔、幼いサムエルに対して母であるアンナが行なったように、マリアもイエスが「生涯にわたって主に委ねられた者」(参照:サムエル上1,28)となることに同意しました。 聖霊で満たされたマリアは十字架の下で「剣で自分の心を刺し貫かれるときに自分の母性が完成することを悟りました」(参照:ルカ2,35)。 マリアはいつか全人類を自分の子どもとして受け入れることを予感しました。 「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」(ヨハネ19,26)と。 イエスの母マリアは、私たちの母でもあります。

 イエスはヨセフから自分の名を受けました(参照:ルカ1,31)。 ナザレで過ごした子ども時代にイエスは家族の親密さを味わいながら、父なる神を「アッバ」と呼ぶ親しい関係を結ぶことを少しずつ学びました。 イエスは両親の教育を受けますが、神の救いの計画を実現するために、即ち「多くの兄弟の中で長子となるために」(参照:ローマ8,29)イエスは両親に対して自由な態度をとりました。 エルサレムの過越祭のときに12歳になったイエスは自立を宣言します。 「わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか」(参照:ルカ2,49)。 また、「わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである」(ヨハネ4,34)と。

 今、イエスの家族について語りました。 なぜ、この家族は聖家族と言われているのでしょうか。 ヨセフは愛と慈しみをもって、まずマリアのうちに、次にキリストのうちに実現されている神の神秘を認め、謙遜に尊敬し、どのように実現されるかを見守りました。 マリアはヨセフを愛しながら、謙遜に彼の保護のもとで生きることを承諾しました。 ヨセフの愛に支えられ、マリアは神の救いの計画を理解し、受け入れてイエスを大切に育てました。 イエスはヨセフとマリアの愛に支えられ、自分のうちに神が置かれた召命と使命の恵みを発見しました。 神の前に生き、そのみ旨を行なったヨセフ・マリア・イエスは模範的な聖家族です。 信仰のうちに「わたしたちは、既に神の子である」(参照:1ヨハネ3,2)ことを再発見しましょう。 私たちもまた神の前に生き、そのみ旨を行うことによって聖なる家族となりましょう。 私たち一人ひとりが、ヨセフ・マリア・イエスの家族から助けと執り成しを受けるように祈りましょう。 アーメン。


            主の公現の主日  C年  201916日   グイノ・ジェラール神父

                 イザヤ 60,1-6  エフェソ 3,2-35-6  マタイ 2,1-12

  エルサレムの都は、世界の中心だと預言者イザヤは思い込んでいました。 神はここに住んでいるので、すべての人々がこの都に集中するべきです。 特に異邦人たちが、エルサレムの神殿で神を拝むように招かれています。 占星術学者たちの話を語ることによって、マタイ福音記者はイエスの誕生の時からイザヤの預言が実現し始めたことを教えています。 イエスの誕生の最初の証人として、占星術学者たちはすべての国の人が神を探し求めるように誘っています。

 事実を言えば、神は最初に人々を探し求めることにイニシアティブ(率先、先導)をとって行動します。  占星術学者たちを行動させた夜空に現れた星は、それを具体的に教えています。 彼らは天のしるしを見て、それが神のお告げだと理解し、彼らの心は希望に溢れ心揺さぶられました。 生まれた幼い子を見つけるために、占星術学者たちはすべてを捨てて、出発します。 確かに、神を探し求めることは人を豊かにすると同時に清貧に導きます。

 占星術学者たちは知恵があり、尊敬されていて、ゆとりのある暮らしをしていました。 ユダヤの王と出会いたいという強い望みのゆえに、彼らは自分たちの豊かな暮らしを捨てました。 エルサレムに辿り着いた途端、占星術学者たちは自分たちの知識をひけらかすことなく謙遜に律法学者たちの知恵や管理を願い、ヘロデ王の気ままな気持ちに寄り頼むことになりました。 また、ベツレヘムに辿り着くと占星術学者たちは、自分の高い地位を忘れて、謙遜に生まれたばかりの幼いイエスの前で平伏しました。 そして持って来た宝物、つまり彼らのゆとりのある暮らしの印の、黄金、乳香、没薬を、イエスに捧げました。 帰りは、彼らは知らない道を通って、自分の国に戻ることが必要でした。 ささげた物のお陰で、占星術学者たちは豊かにされました。 イエスの内に彼らは全能の神を発見し、神の救いだけが与える喜びと平和が彼らの人生を満たしました。

 神はすべてを越える方だからこそ、私たちは遠く離れていると感じます。 しかし、神は私たちにとても近い方です。 神は私たちの心の底の奥深くに隠れています。 特に私たちが育て持っている「神を見つけたい」という希望の内に、神は隠れています。 神を探し求めることは、ある種のゆとりのある暮らしや考え方を失うことを要求しています。 しかし、それによって私たちは豊かになります。

 神を探し求めることは、私たちの前に光り輝いている希望の道を開きます。 神を探し求めて、そして見つけることによって、私たちの喜びが完全になることが神の唯一の望みです。 この言い表せない喜びの泉は、神の終わりのない愛と神との親密な出会いの内にあります。

 「神発見の望み」は、神への私たちの飢えと渇きを深めます。 神はご自身を啓示することによって私たちを養い、強め、日常生活の道を照らし、そして安全に私たちを導きます。 そして何よりも先ず、神は私たちの内に永遠の喜びの泉として湧き出るでしょう。 ですから、占星術学者たちと同様に、神に感謝しながら謙遜にイエスを崇め礼拝しましょう。 アーメン。



          の洗礼の祝日 C年   2019113日  グイノ・ジェラール神父

            イザヤ40,1-59-11  テトス2,11-143,4-7  ルカ3,15-1621-22

   降誕節は主の洗礼の祝日で終わります。 今日の典礼の朗読を通してキリストをもっと深く知るように努力したいと思います。 ご存知のように、イエスという名前は「神が救う」を意味します。 預言者イザヤの約束を実現するために、イエスは生まれました。 慰めと赦しをもたらすことによって、良い羊飼いとしてイエスは神の慈しみを現そうとします。 主の洗礼は、特にご托身の真理を現しています。 事実イエスは、全人類と一致してこの人類を苦しめる悪や罪や死を背負うために来られました。

  神の子となるために洗礼を受ける人は、神の愛のうちに沈められています。 預言者イザヤの約束によると、洗礼を受けた途端に神はこの人を「ふところに抱きその世話をします」。 今日私たちも自分の洗礼のことを思い出しましょう。 永遠にご自分の命を私たちに与えた神は、終わりのない慈しみで私たちを包んでいます。 そういう訳で、私たちは受けた貴重な賜物のために、毎日神に感謝するのは当然です。

 メシアを待ち望んでいる群集は、ヨルダン川の岸に立っている洗礼者ヨハネの傍に集まって来ました。 イエスこそ、このメシアです。 「油を注がれた者」としてキリストの人性は、父なる神との出会いと祈りとのうちに土台を見つけました。 父なる神はイエスを愛し、そして声により更に鳩の姿で遣わされた聖霊によって、ご自分の愛を具体的に現します。 昔、預言者イザヤはそれを預言しました。 「主の栄光がこうして現れるのを 肉なるものは共に見る。 主の口がこう宣言される」と。

 イエスがメシアだと信じるなら、私たちは主と共に祈ること、そして父なる神の愛と聖霊の賜物で満たされることを強く望むべきです。 テトスへの手紙で言われたパウロの言葉によると、キリスト者である私たちは「良い行いに熱心な民」(テトス2,14)にならなければなりません。 イエスと共に絶えず父なる神に向かうなら、私たちは自分の内に慈しみと愛する心を形づくります。 祈りは必ず私たちの心を燃え立たせます(参照:ルカ24,32)。

 父なる神はイエスに息子という名を付けます。 「あなたはわたしの愛する子です」と天から聞こえました。 洗礼によって私たちも御独り子のうちに神の息子たちと娘たちとなりました。 テトスに言われたように、「わたしたちが不信心と現世的な欲望を捨てて、この世で、思慮深く、正しく、信心深く生活し…永遠の命を受け継ぐように」私たちに聖霊の賜物が与えられています。 すぐ傍におられるイエスは、私たちの祈りを自分のものとしながら、私たちがますます神の子として生きることを教えています。

 洗礼の時に私たちは、神の愛のうちに沈められています。 私たちのために天はいつも開いています。 日常生活を通して、イエスを歓迎することが容易になりました。 妬み、不正、暴力、罪によって酷く傷ついているこの世界を父なる神が熱情的に愛しています。 この愛のゆえに神がご自分の子イエスを私たちに与えました。 イエスと共に、永遠の命に全人類を引き寄せるように私たちは招かれています。 聖霊が私たちを教え導き、守り、私たちの心を愛と慈しみで燃え立たせますように。 アーメン。


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